蚕種西漸図

 

 

 「桑の木」といわれると、大抵の人は「生で食べても、ジャムにしても美味しい濃紫色の実がなる木」あるいは「絹を生みだす蚕のごはんの木」という形で想像する人も多いと思います。

 今回記すのは直接的な「桑の木伝説」ではないのですが、遠い意味で「桑の木の物語」と解釈することできると思うので「桑の木の物語」として語ることにしました。

 中国の西の方にあるホータンという地方は、今でこそ絹の産地として知られているのですが、絹織物の発祥は実はこの地方ではないのです。
 絹の作り方を最初に見つけたのは確かに中国なのですが、絹織物の技術が確立されたばかりの頃、ホータン地方は正式な意味での中国の国土ではなかったのです。
 この当時、ホータン地方は「ウテン(本当はこの国の漢字もあるのですが、わたしのパソコンではその字が出てくれないので、あえてカタカナ表記をしています)」という名前の国でした。
 当時の中国はそれなりの国力を持っていて、ウテン国も一応は「独立した国家」ではあったのですが、中国の影響下におかれていたのです。

 そんなウテン国で、あるとき若い王が即位しました。
 彼の頃のウテン国の経済状況はおせじにも潤っているとは言い難い状況で、国と民を深く愛する王はこの状態をどうやって打破するかを日々悩んでいたのです。
 少しでも国庫が潤ってくれれば、国民にも今よりも楽な生活を保証することができるでしょうし、何よりも本当の意味で独立国として中国の助けを得ずともやっていくことも叶うかもしれないのですから。
 考えに考えた末、王の頭にうかんだのは絹織物でした。
 この頃、絹の布は「花よりも美しく、黄金よりも輝いて、風よりも軽く、太陽よりも暖かい」と形容されるほどの品であり、当然周辺諸国の憧れの品でもあったのです。
 しかし、この絹織物を作る技術を持つ中国は他国にそれ伝授する気は全くありませんでした。ゆえに、どうしても絹が欲しいのならば、自分が欲しいと思う絹の量に見合うだけの黄金を用意して中国から買わなければならなかったのです。
 もしもそれほどの布を自国で作ることができれば、そしてその布を輸出品とすることができれば、それはどれほどの富をウテン国にもたらしてくれることでしょうか。
 王がそう思うようになるまでに時間は要しませんでした。

 とはいえ、絹の織り方は中国にとっても国家機密であり、それを迂闊に他国に漏らすことなどあろうはずはありません。
 なにしろ、中国の国内でも蚕や絹織物を作る道具類の持ち出しは固く制限されていたのですから。
 中国国内ですらそのような状況なのですから、ウテン王が中国に出向いて「絹の製法を教えてください」と言ったところで、黄金を積んで買うように言われるか、それとも追い帰されるのが関の山でしょう。

 この難題をどうするかを悩んだ王は、あるとき、用を作って自ら中国の王宮に出向くのでした。

 「大国である中国への朝貢」を口実に中国に出向いたウテン王は、王宮で王女のひとりと知り合うことになります。
 王が王宮に滞在するあいだに彼と王女は親しくなり、王女は祖国と民を心より愛する若いウテン王に次第に心を寄せるようになるのでした。

 しかし、いつまでも一国の王が自国を留守にしておくわけにはいきません。
 彼は帰国の途につくこととなり、親しくなった王女とも別れることになったのです。

 そして暫く後、ウテン王は王女への手紙と一緒に正式な求婚の書状を中国に送ります。
 中国の王は驚き、大国の王の娘として生まれ育った姫が貧しい国に嫁ぎたがるとも考えていなかったのでこの話を断ることも考えたのですが、求婚された姫にとってはそのようなことは問題ではありませんでした。
 彼女はウテン王と別れてからずっと、この書状が届く日を待っていたのですから…

 そして王女は西の国に嫁ぐことが決まったのですが、それによって彼女には新たな問題が生まれました。
 王女が恋したウテンの王は、彼女が中国を出るときに絹織物のもととなる蚕の繭をいくつかウテンに持ち出すことを王女と交換していた手紙のなかで願っていたのです。
 絹の製法が国家機密であり、その技術は門外不出ものであることは王女も承知していました。
 この禁を破った者の末路も。
 しかし、考えた末に彼女はウテンへの出発の日までになんとかして数個の繭を手に入れ、それを冠のなかに隠して国境を越えること決意したのです。
 それは恋した男性の願いを叶えたいという気持ちだけではなく、自分が嫁ぎ、やがては自分の愛する人や子供たちが暮らすことになるウテンの国のために彼女なりに力になりたいと考えたためでした。
 このときになって彼女は初めて若い王の祖国を思う心に触れたのかもしれませんね。

 王女の一行はなんの咎めもなく国境を通過し、やがては西のウテンの国に到着しました。
 そこでウテン王と中国の王女は再会することになったのです。
 繭を運んだ王女はウテンの国中からの熱烈な歓迎を受け、盛大な婚礼が催されたそうです。

 婚礼の後に行われたのは桑の木の大捜索でした。
 ウテンの国の気候は湿潤な中国とは大きく違い、蚕の食用となる桑の木があるかどうかも怪しかったのです。
 ここで桑の木が見つからなければ、せっかく生きてウテンに到着した繭から生まるであろう蚕は死んでしまい、ウテン王の作戦も、王女の決死の行動も無駄になってしまいます。
 しかし、運は若い夫婦に味方しました。
 国中を捜した結果、国土の片隅でひっそりと生きていた一本の桑の木が見つかったのです―

 ウテンの国で養蚕と絹織物が盛んになったのはそれからです。
 蚕の繭から絹糸を紡ぎ、それを布にする技術については王女が知っていました。
 糸を紡いだり、布を織ったりすることは昔は女性一般の教養であり、貴族の姫にとってもそれは例外ではなかったことが多かったらしく、絹の国の中国ではそうした「女性の技術」を絹で王家の娘たちに教えていたのかもしれません。

 ウテンの王が思った通り、絹はウテンの国に大きな富と繁栄をもたらしてくれました。

 そして、国を潤す源を持ってきた王女は、生涯にわたって夫や国民から愛され、大切にされて暮らしたといわれています。

 この物語は伝説的な要素も多分に含んでいるので、物語の主軸になっているウテンの若い国王と、中国の王女の名前についてはよくわかりません。
 なお、この伝説は、神坂智子さんという漫画家さんが「金の髪 金の繭」という作品のモチーフにされているので、その方面で知っている方も多いのではないかな?と考えています(注:漫画では伝説と大きく異なる個所もあります)。